人外魔境のもっと外

推しユニットの復活ライブに行ったら良すぎて気が狂ってしまった

アドアド

ひとつ前に、なんとも無しに書いた「憧憬」

これ単純にこの曲の印象ってだけなのかも

 

Twitter(現X)では何度となく呟いているけど

この曲を聞くたびに、私の心の中の19~20歳頃の自分が目を覚まして、言うんだよね。「これは私の歌だ!」って

 

とはいえ、当時の私が、特定の誰かや世の中の人々に、憧れられたいな~とか思っていたかというとそうじゃない。

むしろ逆で、私はいつも何かに憧れていた。それは「誰か」というよりも、空とか雲とか空気とか、漠然とした時間の流れとかに。

身も蓋もない言い方をすると、当時の私はさっさと人間を辞めたかった、それでもう空気の塵になりたかった。もっとストレートに言うなら、ほんとに早く死にたかった。

家族も通行人も全部全部嫌だった、というか、そうやって、全ての人と理解しあえない、「異物」な自分が嫌だった

 

だからなんかいっつも空とかそのへんの景色とかそういうのばかり見ていて、「あ~あ私もあそこに行きたいな」などとよく思っていた。実際、当時は空を飛ぶ妄想をよくしていた……(幼児?)

田舎の空は広く美しく、思春期の子供(20歳とかだが)の自意識を飲み込むには巨大すぎた

光る晴天を見れば、その美しさと自分の醜さとの対比で死にたくなって、

暮れる夕焼けを見ては私も一緒に消えたくなった

 

こういう事を人に言うと「あら病んでたのね」って思われそうだから、あまり話さないけど

どちらかというと、こういうのは穏やかな、凪いだ気持ちの時に現れるものだしね

なので、あまり負の感情と自分では思っていない

現に40越えて穏やかに母親やってる今、私は人間も空も空気など全部、昔より好きになったし愛しいけど、一方で軽薄で愚鈍な私自身は嫌いなままで、でもその気持ちがありのままの自分そのものって思えるようになったし、だから病んでるとかはない(あらやだとても脱線)

 

脱線と言いつつ、脱線じゃないね

当時の私はいつも「そっちに行きたい」「綺麗でいたい」という気持ちでぐるぐるしていて

しかし当時の私がこんなに自分を綺麗に俯瞰して見れていたかといわれればそうではなく

頭の中は感情の洪水がただ溢れていただけ

 

じゃあ何で今の私がこうして、当時の私の気持ちをちゃんと言葉にできているかというと

20代も半ばすぎたかそこらで聞いたこの曲が

時間を超えて、当時の私の心に寄り添ってくれて、気持ちを詩と音に乗せてくれたからだと思う

「洗いたてのシャツを着るたびに」というフレーズが始まった途端に広がる世界は、昔の自分の見ている世界そのもので、

 

よく晴れた日の青空

道端の花

音をならす色んな機械

 

アドアドの曲もPVも、本当に昔の私の心の中身を取り出したようで

無価値で不要物だと思っていた私の心の中身も、案外綺麗なものだったのかもと思えて

だから聞くたびに、当時の私がすごく救われた気持ちになる

 

「私はいつでも憧れられたくて」じゃなく

「私はいつも憧れていた」という真逆なことを延々書いてしまった

でも、そういうものじゃないのかな

「憧憬」の感情って

 

ああなりたい、ああいう姿に憧れているの。っていう気持ちなんて、

ああなった私はきっと素晴らしいものに違いない

いつか私も、あんな風に、素晴らしい姿になれる日がくるのかも

っていう、そういう自意識を、多少は含んでいるものじゃないかと、私は思う

 

それすら、私が「異物」ゆえの特殊な考えだと言われたら、ぐうの音も出ないわけだけど

でもこれは私による、私のためだけの文章なので。

テーマ

※あくまで私のイメージ。

独りよがりの印象の押し付けにすぎない。

 

・回復

・憧憬

 

なんとなくこのふたつが肝なのかな

と思えてきた。 

いや違うかな……うーんわからない……ブツブツ……

 

(追記)

・距離

これも延々歌ってる気がする

物理的にも、心理的にも。そして時間の流れが経過した結果、ふと振り返った時、もしくは未来を思う時に生まれる、時間としての距離。

 

(追記)

・橋

空間や時間、次元の隔たりを越えること。

過去・現在・未来や、物理的な距離を超えて繋がること。

 

 

mirage

 

春樹にとっての「穴」、伊坂にとっての「逃走」、太宰にとっての「死」
私が好きな作家はなにがしかの大きなテーマをひとつ持っていて、その過程を手を変え品を変え、ストーリーとして昇華しつつ延々書いている。
答えはいつまで経っても掴めず、ゆえにその希求心は強烈な吸引力となり読者を巻き込む。
そのうちに、これは私自身の物語だと思う。孤独に一人歩いていると思っていた旅路に、突然連れ合いが現れたような気持ちになる。

 

mirageの、「涅槃までランデブー」というフレーズを聞いて(読んで)、
これがマルさんにとっての「それ」を理解するヒントなのかなぁ、とふと思った。

外に向けた歌も自省の念もどちらも歌う人だけど、基本的に視線が「誰か」に向いているというか、この人はきっと、単純に人が好き・関わるのが好きな人なんだろうなぁという印象(知らんけど)
お友達も多かろうから(いやほんと知らんけど)現実世界で関わる相手には事欠かないだろう。
でもそこは表現者だからね。
リアルの手の届く範囲に留まらず、「行こう」と手を差し伸べてくれる。
あまつさえ、「時を超えてあいに行くよ」と言ってくれる。
っていうか、「空いにいく」だって!造語?
しやしかし、出た死生観。
そういうのも織り込んでくる、怖いね。お前ら全員連れてくから!の心意気がすごい。兄貴すぎる


もう何もしたくねーしできねーよ、どうせ俺なんかよ~。みたいな、もう正に、それってオレオレオレオレ~!!みたいな歌も歌いつつ、
こうして「これからもずっと一緒に行こう、そして死ぬまでいい景色を見ていようぜ」なんて言ってくる
そら、我ら地底に住まいし陰キャ人には光輝いて見えようというものよ

多分18年くらい前、今は亡き(あるけど)mixiに、マルさんのことを「眩しすぎて灰になりそう」と書いた記憶があるんだけど
最近、言うて5年ぶりだが、とにかく最近はあまりそうは思わず、お釈迦様みたいな気持ちで、拝んでいる。
導きを感じる。迷いが無い。まっすぐに先だけ見ている。光……。


みんな大好きアップライトソング、みんな大好きセレモニー
一緒に行こう、どこまでも連れて行くよと言ってくれる姿は、私のような穴倉のモグラには眩しすぎるけど
そう言って、言い切ってくれて、実際、約20年弱、私に沢山の綺麗なものを見せ続けてくれたので、
では、僭越ながらお供させて下さいと思う。

ライブハウスで演者とオーディエンスでいる間だけは、私は、どこまでも連れて行ってもらうことができるのだ。


しかし、こんなに書いたのに、マルさん(HONDA LADYとしてのだけど)にとっての「それ」を明確に捉えることって、できないなぁ。
「一緒に行こう」とかはしっくりくるけど、それってちょっと大雑把すぎるし。
多分、もっと簡潔に言い表せる、明確な概念が、きっとあるはずなんだけどな。
「道程」かな。
いやもうちょっと。もうちょっと何かあるんだよな。もうちょっとこう、意思が強いんだよ、あの人が指さしてる方向って。